HISTORY File 008長年の思いが
叶ったレース

長年の思いが叶ったレース
長年の思いが叶ったレース

第1章

競馬の祭典

「競馬の祭典」と呼ばれる日本ダービーは、3歳世代の頂点を決めるレースである。競走馬にとっては一生に一度しか出走できない晴れ舞台。すべてのホースマンが戴冠を夢見るダービーを勝つのは、一国の宰相になるより難しいとも言われている。

数々の大レースを制したトップジョッキーといえども、ダービーを勝つのは容易ではない。何度も挑戦を続け、苦心の末、栄冠を手にした名騎手もいる。

第2章

1993年
場内に響き渡った
“マサトコール”

1993年の牡馬クラシック三冠は「三強」による争いとなった。「天才」武豊騎手が乗るナリタタイシン、「名手」岡部幸雄騎手が騎乗するビワハヤヒデ、そして「勝負師」柴田政人騎手が手綱を取るウイニングチケットがしのぎを削った。

三冠レースの皮切りとなる皐月賞で1番人気に支持されたのは、4連勝で弥生賞を制して臨んだウイニングチケット。しかし、直線で伸び切れず4着に敗れ、勝ったのはナリタタイシン、続く2着はビワハヤヒデだった。

続く日本ダービーでも1番人気に支持されたのは、ウイニングチケット。
「ダービーを勝てたら騎手をやめてもいい。それくらいの決意で乗らなければならないレースだ。 」
そう言っていた柴田騎手が日本ダービーで1番人気の馬に騎乗するのは、19回目の参戦となったこの年が初めてだった。1988年に全国リーディングに輝いたほか、皐月賞、菊花賞、春秋の天皇賞、有馬記念など、数々のGⅠレースを勝利していた柴田騎手も、ダービーには手が届いていなかった。

パドックと返し馬で、柴田騎手はウイニングチケットの状態の良さを感じていた。皐月賞のときより格段に落ち着いていたのだ。

第60回日本ダービーのゲートが開いた。序盤、中団から競馬を進めたウイニングチケットは、徐々にポジションを押し上げ、ビワハヤヒデを前に見る好位で折り合いをつけた。4コーナーで距離ロスのない最内を回り、直線へ。スパートをかけながら外に持ち出し、馬場の真ん中から末脚を伸ばし、早めに先頭に立つ。内から伸びるビワハヤヒデ、外から迫るナリタタイシンとの激しい競り合いを制し、先頭でゴールを駆け抜けた。

柴田騎手は、デビュー27年目、44歳にして、ついに念願のダービージョッキーの称号を手に入れたのだ。19回目の挑戦での優勝は、ダービー初勝利までの最多騎乗回数(タイ)だ。レース後のウイニングランでは、勝者を称える「マサトコール」が東京競馬場内に響き渡り、勝利ジョッキーインタビューでは、「世界のホースマンに、第60回日本ダービーを獲った柴田です、と報告したいと思います」と語った。柴田騎手のこの言葉は、競馬史に残る名言として知られている。

第3章

2000年
夢を掴んだ後方一気

河内洋騎手は、1980年代に3度全国リーディングを獲得。86年にはメジロラモーヌとのコンビで史上初の牝馬三冠制覇を達成するなど、数々の金字塔を打ち立ててきた。

そんな河内騎手のクラシック初勝利は、アグネスレディーで制した79年のオークスだった。さらに90年には、同馬の娘アグネスフローラで桜花賞を制し、母仔クラシック制覇を達成。そのアグネスフローラの4番仔で、父に大種牡馬サンデーサイレンスを持つアグネスフライトも、河内騎手のお手馬になった。

2000年、アグネスフライトは旧4歳の2月にデビュー。若草Sと京都新聞杯を勝ち、第67回日本ダービーへと駒を進めた。このレースで1番人気に支持されたのは皐月賞馬エアシャカールだった。鞍上は、河内騎手が武田作十郎厩舎に所属していたときの弟弟子にあたる武豊騎手。武騎手は98年にダービー初勝利を挙げ、翌99年、史上初のダービー連覇を果たし、3連覇を狙っていた。一方、河内騎手騎乗のアグネスフライトは3番人気という評価だった。

スタート後、アグネスフライトは最後方に待機した。そのまま1、2コーナーを回り、向正面へ。3コーナーに入ってもまだ最後方だったが、4コーナー手前で馬群の外から押し上げ、徐々に前との差を詰めていった。ラスト200m地点でエアシャカールが先頭に躍り出る。アグネスフライトは河内騎手の左鞭に応え、大外から豪快に末脚を伸ばしエアシャカールとの差を1完歩ごとに縮め、鼻面を揃えた次の瞬間ゴール。

写真判定の結果、アグネスフライトがハナ差だけ前に出ていた。

河内騎手は、ダービー初騎乗から17回目の挑戦で栄冠を手にした。これは当時、柴田政人騎手に次ぐ史上2番目の騎乗回数であった。この時デビュー27年目の45歳。それまでダービーで3度1番人気の馬に騎乗してきたが、厚い壁を打ち破ることができずにいた。「ラストチャンスだと思って臨んだ」という「競馬の祭典」で、ついに頂点に立ったのである。

第4章

2018年
一家悲願の勝利

「平成最後のダービー」となった2018年の第85回日本ダービー。

福永祐一騎手のワグネリアンは、新馬戦から東京スポーツ杯2歳Sまで3連勝し、年明け初戦の弥生賞は2着。続く皐月賞で1番人気に支持されたが、追い込み及ばず7着。そうして迎えたダービーでは、不利と言われる外の17番枠を引いたこともあり、単勝12.5倍の5番人気の支持にとどまっていた。

ゲートが開いた。ワグネリアンは、終始好位の外目で折り合い、抜群の手応えで直線に向いた。先頭を行く皐月賞馬エポカドーロとの差を徐々に詰め、ラスト400m地点を通過したところで福永騎手がゴーサインの右鞭を入れた。しかし、内のエポカドーロが強力な二の脚を使い、ラスト200m地点でも1馬身ほど前に出ていた。ラスト100mを切った。ワグネリアンがエポカドーロとの差を首、頭と縮め、ゴールまであとわずかのところで逆転。先頭でゴールを駆け抜けた。

19回目の挑戦で栄冠をつかんだ福永騎手の目には涙があった。彼を迎えた友道康夫調教師と金子真人オーナーも泣いていた。
「もうこのままダービーを勝てないんじゃないかと思ったこともありました。」
そう話した福永騎手は、デビュー23年目、41歳になっていた。通算21勝目のGⅠが、このダービーだった。

天才・福永洋一元騎手の息子として早くから注目され、デビューした1996年に56勝(地方含む)を挙げてJRA賞最多勝利新人騎手を受賞。1998年にキングヘイローで初めてダービーに参戦し、最高着順は2007年アサクサキングス、13年エピファネイアで2着と、栄冠にはあと一歩届かなかった。

父・洋一氏は9年連続で全国リーディングに輝くも一番勝ちたかったというダービーを勝てぬまま鞭を置いた。
「今日は、福永洋一の息子として誇れる仕事ができたと思います」
初参戦から19回目での優勝は、父と同期の柴田政人騎手と同じ、ダービー初勝利までの最多騎乗回数であった。

第5章

全てのホースマンの夢

すべてのホースマンが勝利を夢見る「競馬の祭典」だからこそ、その道のりは険しい。人馬一体となって高みを目指し、幾多の試練を乗り越えた先に栄光のゴールがある。

夢を追い続け、勝利に向けて努力し続けたホースマンの汗と涙は、人々の心を大きく動かす。

はたして、今年のダービーではどんなドラマが生み出されるのだろうか。

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