HISTORY File 003日本ダービー
90回記念

日本ダービー90回記念
日本ダービー90回記念

第1章

日本ダービーとは

今年、日本ダービーは90回目を迎える。「ダービー」という名前は競馬ファンではなくても耳にしたことがあるように、中央競馬で開催されているGⅠの中でも特に親しまれているレースである。

ただ、日本ダービーは副称であり、正式名称は「東京優駿」である。世界各国でダービーと呼ばれるレースが行われており、競馬主要国と言われるアメリカではケンタッキーダービー、イギリスではダービーステークス(エプソムダービー)、フランスではジョッケクルブ賞(仏ダービー)との名で呼ばれている。

そもそもダービーはイギリスが発祥の地であり、日本ダービーはイギリスのダービーステークスを模範とし、出走できるのは3歳馬だけで、舞台は芝2400m。この日本ダービーと皐月賞、菊花賞は「クラシック三冠競走」と呼ばれており、

「最も速い馬が勝つ」と言われる皐月賞、「最も強い馬が勝つ」と言われる菊花賞に対して、日本ダービーは「最も運のいい馬が勝つ」とも言われている。その中でも日本ダービーは3歳馬の頂点を決めるレースと位置付けられており、日本ダービーに優勝することは全てのホースマンの夢でもある。 そもそもダービーはイギリスが発祥の地であり、日本ダービーはイギリスのダービーステークスを模範とし、出走できるのは3歳馬だけで、舞台は芝2400m。この日本ダービーと皐月賞、菊花賞は「クラシック三冠競走」と呼ばれており、「最も速い馬が勝つ」と言われる皐月賞、「最も強い馬が勝つ」と言われる菊花賞に対して、日本ダービーは「最も運のいい馬が勝つ」とも言われている。その中でも日本ダービーは3歳馬の頂点を決めるレースと位置付けられており、日本ダービーに優勝することは全てのホースマンの夢でもある。

第2章

勝つための
ダービーポジション

最も運のいい馬が勝つと言われる日本ダービーだが、それはかつてフルゲートが現在よりも遥かに多い頭数であったことも関係している。1953年は過去最多となる33頭が出走していたが、こうなると道中の位置取りが勝負の分かれ目ともなってしまう。日本ダービーが行われる東京競馬場芝2400mは、ゴール前の直線が長く、一般的には差しや追い込み馬にとって不利もないコースとされている。それでも多頭数となれば、後方からレースを進めた馬は前に抜け出ることもままならず、場合によっては不利を被る可能性も出てくる。

そのため、「ダービーを勝つためには1コーナーを10番手以内で回らなければいけない」という「ダービーポジション」という言葉も生まれたが、今や脚質に関係なく、日本ダービーも「強い馬」が勝つレースへと変わってきた。 最も運のいい馬が勝つと言われる日本ダービーだが、それはかつてフルゲートが現在よりも遥かに多い頭数であったことも関係している。1953年は過去最多となる33頭が出走していたが、こうなると道中の位置取りが勝負の分かれ目ともなってしまう。日本ダービーが行われる東京競馬場芝2400mは、ゴール前の直線が長く、一般的には差しや追い込み馬にとって不利もないコースとされている。それでも多頭数となれば、後方からレースを進めた馬は前に抜け出ることもままならず、場合によっては不利を被る可能性も出てくる。そのため、「ダービーを勝つためには1コーナーを10番手以内で回らなければいけない」という「ダービーポジション」という言葉も生まれたが、今や脚質に関係なく、日本ダービーも「強い馬」が勝つレースへと変わってきた。

第3章

ダービー馬は
ダービー馬から

日本ダービーはサラブレッドとして優れた馬を決める、種牡馬選定競走とされている。ダービー馬のほとんどが引退後は種牡馬となっているだけでなく、ダービー馬の産駒からダービー馬が多く誕生している。日本競馬で初めて親仔ダービー制覇を果たしたのは、第2回の優勝馬であるカブトヤマと、第14回の優勝馬であるマツミドリとなる。

以後、シンボリルドルフとトウカイテイオー、タニノギムレットとウオッカなど15組が親仔ダービー制覇を果たしている。その中でも唯一の父娘制覇となったのがタニノギムレットとウオッカであるが、ウオッカも含めて、牝馬の日本ダービー制覇は3頭しかいないだけに、今後この偉業が達成されるのはかなり難しいとも言えそうだ。

そして第72回優勝馬のディープインパクトは、ディープブリランテを皮切りに父として最も多い7頭のダービー馬を送り出している。中でもコントレイルは、親仔で日本ダービーを制しただけでなく、親仔で無敗のクラシック三冠制覇という偉業を成し遂げている。

第4章

外国産馬への開放

日本ダービーはかつて、日本国内で誕生した馬しか出走できなかった。一時期は「持込馬」と呼ばれる、海外で交配した後に日本に輸入されて誕生した馬も外国産馬と同じ扱いをされており、この規定に阻まれる形で日本ダービーに出走できなかった馬がいる。そのうちの1頭に、通算成績8戦8勝、その8戦でつけた着差の合計が61馬身であり、のちに顕彰馬にも選出されているマルゼンスキーがいる。この時、鞍上を務めた中野渡清一騎手は「賞金もいらないし、大外枠でもいい。ほかの馬の邪魔をしないようにずっと外を回ってくるから、ダービーに出してほしい」と日本ダービー出走への思いを語ったとされている。ホースマンにとって、日本ダービーに出走すること自体がまた一つの目標となっているのだ。

そこから24年の時を経て、2001年に外国産馬は2頭まで出走可能となった。そして国際競走に指定された2010年からは外国産馬に加え、外国調教馬も含めて最大9頭の出走が可能となっている。

開放元年となった2001年には、日本ダービーの外国産馬「開放」と、「開国」を迫ったペリー率いるアメリカ艦隊の蒸気船の通称に由来するクロフネが、その名の通りに出走するも5着という結果だった。外国産馬へ開放されて以降、2002年のシンボリクリスエスが2着となったのが最高着順で優勝馬は出ていないが、それだけ内国産馬のレベルが上がったということが言えるのではないだろうか。 そこから24年の時を経て、2001年に外国産馬は2頭まで出走可能となった。そして国際競走に指定された2010年からは外国産馬に加え、外国調教馬も含めて最大9頭の出走が可能となっている。開放元年となった2001年には、日本ダービーの外国産馬「開放」と、「開国」を迫ったペリー率いるアメリカ艦隊の蒸気船の通称に由来するクロフネが、その名の通りに出走するも5着という結果だった。外国産馬へ開放されて以降、2002年のシンボリクリスエスが2着となったのが最高着順で優勝馬は出ていないが、それだけ内国産馬のレベルが上がったということが言えるのではないだろうか。

第5章

ダービーで生まれた
数々のドラマ

第二次競馬ブームが起こったとされる1980年代後半以降、若い世代や女性のファンが増えていった。1985年から日本ダービーへの来場者は年々増加し、19万6517人という入場人員を記録した1990年の日本ダービー。アイネスフウジンに騎乗した中野栄治騎手は、21頭の出走馬を従えるかのように先手を奪うと、そのまま影も踏ませぬ逃げ切り勝ちで優勝を果たした。ウイニングランでは勝者を称える「ナカノコール」が起こったが、これが競馬場における最初のコールとも言われており、現在も名場面として語られている。

また1993年の日本ダービーでは、デビュー27年目、数多くの大レースを勝利しながらも日本ダービーには手が届かず、19回目の日本ダービー挑戦となった柴田政人騎手騎乗のウイニングチケットが優勝。中野栄治騎手同様、ウイニングランでは「マサトコール」が競馬場に響き渡り、レース後のインタビューでは「世界中のホースマンに第60回日本ダービーを勝った柴田政人です、と伝えたい」という名言が生まれた。

そして2000年の日本ダービー。史上初の日本ダービー3連覇がかかった武豊騎手騎乗で1番人気のエアシャカールと、河内洋騎手騎乗で前哨戦の京都新聞杯を制し、日本ダービー出走の切符を掴んだアグネスフライトの壮絶な競り合いもまた、名シーンとなっている。河内洋騎手も柴田政人騎手同様、その時デビュー27年目、牝馬三冠馬のメジロラモーヌをはじめ数多くの名馬に跨ってきたが、日本ダービーには手が届いていなかった。17回目の日本ダービー挑戦で、同じ厩舎出身の弟弟子でもある武豊騎手騎乗のエアシャカールを下しての勝利となった。フジテレビの中継での「河内の夢か、豊の意地か」というゴール前の名実況は多くのファンを興奮させた。

日本ダービーは全てのホースマン、そしてファンの夢が詰まったレースなのだ。

第6章

第90回日本ダービー

日本ダービーは全てのホースマン、ファンの夢が詰まったレースだからこそ、毎年違ったドラマが生まれ、これまで89のドラマが紡がれてきた。この日に向けて育成・調教に関わる人々、公正な競馬運営を行う関係者、そして競馬を盛り上げるファンの存在があるからこそ、レース自体が一つの「物語」となっている。

90回目の節目を迎える今年の日本ダービー。まだ達成されていない父仔3代ダービー馬は誕生するのか、悲願のダービー制覇はあるのか、それとも誰も想像がつかない偉業が達成されるのか。誰もが“日本ダービー”というレースに期待を膨らませている。

第90回日本ダービーでは、どんな「物語」が待っているのか。歴史的瞬間を目に焼き付けよう。

ダービー年表

1932年
イギリスのダービーステークスに範をとり、競走体系の確立と競走馬の資質向上を図るという意図から、3歳牡馬・牝馬限定の重賞競走「東京優駿大競走」として創設され、目黒競馬場の芝2400mで開催。ワカタカが優勝。
1934年
府中にある現在の東京競馬場に舞台を移す。
1937年
ヒサトモが牝馬として初めて優勝。2着にもサンダーランドが入り、牝馬でのワンツーフィニッシュとなる。
1938年
「東京優駿競走」に名称変更。
1943年
牝馬のクリフジが優勝。
1947年
戦後初の開催。マツミドリが優勝。父カブトヤマは第2回の優勝馬であり、初の親仔制覇を果たす。
1948年
「優駿競走」に名称変更。
1949年
23頭中19番人気のタチカゼが優勝。単勝の払戻金が55,430円と史上最高の大波乱に。
1950年
「東京優駿競走」に名称変更。「日本ダービー」という副称が付けられる。
1954年
地方競馬出身馬として初めてゴールデンウエーブが優勝。
1964年
「東京優駿(日本ダービー)」に名称変更。
1984年
グレード制が導入。GⅠに格付。
1990年
アイネスフウジンが優勝。196,517人という最多入場人員を記録。2023年現在、東京競馬場のみならず、JRA史上最多入場人員となっている。
1994年
ナリタブライアンが優勝。ダービー1レースでの最高の売上金額「56,786,290,400円」を記録。
1995年
指定交流競走となり、地方所属馬の出走が可能に。
1996年
デビューから3戦目となるフサイチコンコルドが歴代最少キャリアで優勝。
1999年
武豊騎手騎乗のアドマイヤベガが優勝。前年のスペシャルウィークに続き史上初の連覇を達成。
2001年
外国産馬が2頭まで出走可能となる。クロフネとルゼルが出走するも、5着、14着(優勝馬:ジャングルポケット)。
2003年
ミルコ・デムーロ騎乗のネオユニヴァースが優勝。外国人騎手初制覇を果たす。
2004年
地方所属馬として初めてコスモバルクが出走。2番人気に支持されるも8着に敗れる(優勝馬:キングカメハメハ)。
2005年
ディープインパクトが優勝。歴代最高単勝支持率となる73.4%を記録。
2007年
牝馬のウオッカが優勝。父は2002年の優勝馬タニノギムレットであり、史上初の父娘制覇を果たす。
2008年
四位洋文騎手騎乗のディープスカイが優勝。前年のウオッカに続き、連覇を達成。
2010年
国際競走に指定。外国産馬に加え、外国調教馬を含め9頭が出走可能となる。
2021年
福永祐一騎手騎乗のシャフリヤールが優勝。前年のコントレイルに続き、連覇を達成。
2022年
ドウデュースが優勝。武豊騎手は日本ダービー6勝目となり、史上最多勝利及び53歳2ヵ月15日での優勝という史上最年長記録を達成。勝ち時計の2分21秒9はレースレコードだった。
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