


その名の通り
その年を象徴する競走馬を決める
「年度代表馬」
その年の中央競馬において、最も優れた競走馬を選出する賞が、JRA 賞年度代表馬である。 その他のスポーツでいうところのMVPにあたる賞と言えるだろう。 選出するのはファンや調教師や騎手でもなく、日々、レースを見続けてきた記者 たちの投票によって決められている。 ちなみにJRA賞では年度代表馬の他にも、性別や年齢ごとに最優秀馬 を決めるだけでなく、レースの距離(最優秀短距離馬)や、異なった条件 (最優秀ダートホース、最優秀障害馬)で最も優れた成績を残した競走馬 への賞といった部門分けもされている。
JRA賞、そして年度代表馬の歴史は、1954年に中央競馬で優れた成績を残した競走馬に与えられる啓衆賞に始まっている。1972年にその役割は中央競馬の機関誌である『優駿』の優駿賞へと変わり、そして1987年からはJRAが主催するJRA賞となった。

三強の争いとなった
1999年の年度代表馬選考
先述した通り、年度代表馬は中央競馬の競走馬の中で、その年に最も活躍した馬に贈られる賞である。必然的にほとんどの場合、JRAで行われるGⅠレースの優勝馬が選ばれていくのだが、選考する記者を悩ませた年となったのが、1999年の年度代表馬選考である。
この年、天皇賞春秋連覇、ジャパンカップとGⅠ3勝をあげたのはスペシャルウィークだった。ただ、宝塚記念と有馬記念を勝利したグラスワンダーは、その2つのレースでスペシャルウィークを下していた。
2頭の選考でも頭を悩ますところだが、そこに加わってきたのが、春シーズンから長期ヨーロッパ遠征を行っていたエルコンドルパサーだった。エルコンドルパサーは遠征初戦となるイスパーン賞こそ2着に敗れるも、続くサンクルー大賞とフォワ賞を優勝。陣営が最大目標として定めていた、世界最高峰のレースの一つである凱旋門賞では、日本調教馬として初めて2着となる快挙を成し遂げた。
年度代表馬の投票はこの3頭で票が割れる形となり、度重なる審議の結果、この年は一度も国内のレースを走ることのなかったエルコンドルパサーが、年度代表馬に輝いた。
実は前年の1998年にも、安田記念とマイルチャンピオンシップのマイルGⅠ2勝に加えて、フランスのG1ジャックルマロワ賞を勝利したタイキシャトルが、マイル以下の短距離のみで活躍した馬として初めて年度代表馬に選出されている。
この年はファレノプシス(桜花賞、秋華賞)、セイウンスカイ(皐月賞、菊花賞)、エルコンドルパサー(NHKマイルカップ、ジャパンカップ)と平地芝GⅠで2勝をあげた馬が3頭いたものの、短距離で実績を残したタイキシャトルが選出されたのは、ヨーロッパのG1勝利が大きかったと言える。
こうした前年からの流れを受け、やはり日本調教馬としては初めてとなる凱旋門賞での連対が、エルコンドルパサーの評価を高めたのだろう。海外遠征が当たり前のように行われている今日の日本競馬界とは、時代背景が少し異なっていたと言える。
スプリンターとして
年度代表馬に輝いたロードカナロア
タイキシャトルの年度代表馬選出から15年後の2013年、再び短距離で活躍したロードカナロアが年度代表馬に輝いた。この年は6戦5勝とほぼ完璧な競走成績を残しており、海外G1の香港スプリントを含めて、GⅠ4勝をあげている。
ただ、この年の年度代表馬候補もレベルの高い年だった。最優秀4歳以上牡馬に選出されたオルフェーヴルは、有馬記念を勝利しただけでなく、エルコンドルパサーと同様に凱旋門賞で2着となっている。また、オークスと秋華賞、古馬相手のエリザベス女王杯を制したメイショウマンボや、日本ダービーを制し、凱旋門賞4着となったキズナ。そして、ジャパンカップ連覇を達成し、GⅠで好走を続けたジェンティルドンナと、各部門の最優秀馬たちも軒並み優れた活躍を見せた。
古くから重要視されてきたクラシックディスタンス(芝2400m)での活躍馬を退けて、スプリントで実績を残した馬が年度代表馬に選出されることは画期的だった。
また、ロードカナロアの仔であるアーモンドアイは2018年、2020年と2度にわたり年度代表馬に選出される活躍を見せ、改めて父の偉大さを証明してみせた。

今や年度代表馬を
席捲し続ける牝馬たち
近年は牝馬の活躍が顕著で、年度代表馬に選出されるケースが増えてきた。
1971年のトウメイ以来、史上2頭目の年度代表馬となったのが1997年の天皇賞(秋)を制し、その後のジャパンカップと有馬記念でも好走を続けたエアグルーヴだった。2008年と2009年には、ウオッカが牝馬としては初めて、2年連続で年度代表馬の座に輝いた。
2010年に選出されたブエナビスタの後にも、2012年と2014年にはジェンティルドンナ、2018年と2020年にはアーモンドアイ、2019年にはリスグラシューが受賞。過去15年で8度牝馬が選ばれている。
これには近代競馬における管理技術の向上により、牝馬の競走生活が長くなったことも大きい。また、以前は輸送といった環境の変化に弱いとされてきた牝馬だったが、ドバイG1のドバイシーマクラシックを勝ったジェンティルドンナ、オーストラリアG1のコックスプレートを制したリスグラシューのように、現在では海外のG1レースでも一線級の牝馬は勝ち負けのレースを繰り広げている。今後も年度代表馬級の牝馬は続々と誕生するに違いない。

リーディングサイヤーの産駒が年度代表馬と
ならない理由とは?
種牡馬リーディングは、2012年から2021年までディープインパクトが首位を守り通しているが、その間に年度代表馬となった産駒は、2012年と2014年のジェンティルドンナの1頭だけである。
実はディープインパクトと同様に、1995年から2007年まで13年にわたって種牡馬リーディング首位を守り続けたサンデーサイレンスの産駒もまた、2004年のゼンノロブロイ、そして、2005年と2006年のディープインパクトの2頭しか年度代表馬はいない。
これは2頭の種牡馬ともに優れた産駒を輩出し続けたことで、GⅠレースに多くの産駒が出走。その結果、年度代表馬の重要なポイントとなる、GⅠを複数回勝利する競走馬が出て来づらくなったことも関係している。
ただ、ディープインパクトからジェンティルドンナ、ロードカナロアからアーモンドアイ、古くはトウショウボーイからミスターシービー、シンボリルドルフからトウカイテイオーというように、親仔で年度代表馬となった例もある。
近年は牝馬の年度代表馬も増えてきただけに、近い将来は母仔での年度代表馬も誕生するかもしれない。

三冠馬になりながらも
年度代表馬に選ばれなかった2020年
過去の年度代表馬の競走成績を見ると、3歳馬はクラシックでの活躍、そして古馬はクラシックディスタンスでの活躍が選出に繋がっていた。
ただ、無敗でクラシック三冠馬、そして史上初めての無敗の牝馬三冠馬となりながらも、その年の年度代表馬に選出されなかった馬がいる。
それは、2020年の牡馬三冠馬コントレイルと、同年の牝馬三冠馬デアリングタクトである。普段の年ならば、この2頭で票が割れるはずなのだが、その2頭が直接対決したジャパンカップには、前々年の牝馬三冠馬であるアーモンドアイが出走していた。
史上初の三冠馬3頭の対決となったジャパンカップを制したのはアーモンドアイ。2着がコントレイルで3着がデアリングタクトと、三冠馬が上位を独占した。
この勝利が決め手となり、アーモンドアイはその年の年度代表馬を受賞。投票する記者たちにとって、この年は極めて難しい年度代表馬選考だったに違いない。
自分の応援していた競走馬が、その年を代表する馬としてその名を競馬史に刻むことができるのか。その結果が発表される翌年の1月上旬を、競馬ファンはいつも心待ちにしている。

年度代表馬 年表
- 1954年
- 中央競馬で優れた成績を残した競走馬を称えるため、啓衆賞を設立。初代年度代表馬にハクリヨウが選出される。
- 1963年
- メイズイとリユウフオーレルが史上初のダブル受賞。
- 1965年
- シンザンが史上初めて2年連続年度代表馬に選出。
- 1971年
- トウメイが牝馬として初めて年度代表馬に選出される。
- 1972年
- JRA機関誌である『優駿』が主催となり、名称を優駿賞に変更。
- 1983年
- ミスターシービーが年度代表馬に選出。
父トウショウボーイ(1976年)と親仔での受賞となる。 - 1987年
- JRAが主催となり、名称をJRA賞に変更。
- 1991年
- トウカイテイオーが年度代表馬に選出。
父シンボリルドルフ(1984,1985年)と親仔での受賞となる。 - 1997年
- エアグルーヴが年度代表馬に選出。牝馬としての選出はトウメイ以来26年ぶり。
- 1998年
- フランスG1ジャックルマロワ賞を制したタイキシャトルが年度代表馬に選出。史上初めて最優秀短距離馬が年度代表馬となる。
- 1999年
- 記者投票で決まらず、JRA賞受賞馬選考委員会での審議の末、フランスG1凱旋門賞2着となったエルコンドルパサーが年度代表馬に選出。選考に残りながら受賞とならなかったスペシャルウィークとグラスワンダーは特別賞を受賞。
- 2009年
- ウオッカが牝馬として初めて2年連続年度代表馬に選出。
- 2012年
- ジェンティルドンナが年度代表馬に選出。父ディープインパクトと親仔での受賞となる。
- 2013年
- 香港G1香港スプリント連覇を達成したロードカナロアが年度代表馬に選出。
最優秀短距離馬が年度代表馬に選出されるのはタイキシャトル以来2度目。 - 2018年
- アーモンドアイが年度代表馬に選出。父ロードカナロアとの親仔での受賞となる。
- 2020年
- ジャパンカップで三冠馬3頭による直接対決をアーモンドアイが制す。
アーモンドアイは2度目の年度代表馬選出。無敗のクラシック三冠馬コントレイルは最優秀3歳牡馬に、無敗の牝馬三冠馬デアリングタクトは最優秀3歳牝馬に選ばれる。

第1章 世界への挑戦
今や世界各国のG1レースで勝利をあげるようになった日本調教馬たち。だが、そこに至るまでの過程には度重なる敗戦と、それでも諦めなかったホースマン達の挑戦があった。
1900年代初頭から始まっていた日本調教馬の海外挑戦であるが、1959年に初めて重賞(ワシントンバースデーハンデキャップ)を制したのは、東京優駿(日本ダービー)、天皇賞(秋)、有馬記念の優勝馬ハクチカラである。
だが、その後日本調教馬たちは海外遠征に挑むも敗戦を繰り返し、1969年にスピードシンボリがヨーロッパ最高峰のレースのキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSと凱旋門賞に出走。着順こそ振るわなかったものの、現在に至る凱旋門賞挑戦への扉を開いた。
第2章 世界に通用する強い馬づくり
こうした挑戦が契機となり、「世界に通用する強い馬づくり」の機運が高まってきた中で1981年に創設されたのが、国際招待競走のジャパンカップである。第1回ジャパンカップでは1着から4着まで全て北米の馬で、優勝したメアジードーツの勝ち時計である2分25秒3は、当時の東京競馬場芝2400mのコースレコードを1秒も更新。日本のホースマンとファンは、世界との差をまざまざと感じさせられる結果となった。
世界との差を埋めるのは困難にも思えたが、それから3年後の1984年にカツラギエースが逃げ切り勝ちを果たすと、その翌年にはシンボリルドルフが優勝。その後、シンボリルドルフはアメリカ遠征を果たしただけでなく、同時期にはシリウスシンボリとギャロップダイナもヨーロッパの遠征を行っている。結果は揮わなかったが、世界への挑戦は続いていた。
その後、遠征馬の数は少なくなるも、海外への挑戦で得た馬づくりや、ジョッキーを含めたホースマンとの交流が日本競馬のレベルを上げていった。また、1986年頃から続いたバブル経済が、生産地に潤沢な資金をもたらし、世界各国から良血馬が導入されたことも、血統レベルの底上げとなっていった。

第3章 時代が動いた1998年
ハクチカラの勝利から36年後の1995年、香港国際カップ(現香港カップ。当時はG2)をフジヤマケンザンが優勝し、ついに海外での重賞勝ち馬が再び誕生した。その3年後の1998年には、シーキングザパールがモーリスドゲスト賞で優勝し、日本調教馬としては初めての海外G1制覇を果たした。更にその翌週にはタイキシャトルがジャックルマロワ賞で優勝し、日本調教馬がフランスで2週連続G1制覇という快挙を成し遂げた。
一気に世界の競馬との扉が開く中、凱旋門賞挑戦を目指して1999年に長期ヨーロッパ遠征を行ったのがエルコンドルパサーである。エルコンドルパサーは同年のサンクルー大賞で優勝を果たし、凱旋門賞でも2着となる活躍を見せ、これにより日本調教馬の凱旋門賞制覇が夢ではないことを証明した。また、同じ年にはアグネスワールドがフランスのアベイドロンシャン賞を制しただけでなく、さらに同馬は翌年にジュライカップを優勝。これはイギリスにおける、初めての日本調教馬の勝利ともなった。
第4章 メイドインジャパンによる海外G1制覇
上記であげた海外でのG1制覇は、海外からの輸入馬によるものであったが、以降は日本生産馬のG1制覇も珍しくなくなっていく。その際に大きな役割を果たしたのが、不世出の大種牡馬であるサンデーサイレンスだった。
2001年の香港国際競走において、海外からの輸入馬であるエイシンプレストンとアグネスデジタルが、香港マイルと香港カップでそれぞれ勝利をあげる中、香港ヴァーズではサンデーサイレンス産駒のステイゴールドが優勝。これが日本生産・日本調教馬による海外G1初制覇となった。
その後、サンデーサイレンスの産駒からはハットトリックが2005年の香港マイルを、ハーツクライが2006年のドバイシーマクラシックを制した。また、その孫世代に当たるシーザリオ(父スペシャルウィーク)は、2005年のアメリカンオークスを、デルタブルース(父ダンスインザダーク)は2006年のメルボルンカップを制し、一気に日本の血統レベルを世界基準へと押し上げていった。

第5章 年々レベルをあげていく日本調教馬
日本調教馬の更なるレベルアップを示すかのように、海外G1の勝ち馬はサンデーサイレンスや、その後継種牡馬以外からも誕生していく。2012年にキングカメハメハ産駒のロードカナロアは、これまで多くの日本調教馬が敗れてきた香港スプリントを優勝。翌年も優勝し、史上3頭目となる同レース連覇を果たした。スクリーンヒーロー産駒のモーリスは、2015年に香港マイル、2016年にチャンピオンズマイル、香港カップを勝ち、香港G1を3勝する活躍を見せた。
サンデーサイレンスの孫世代の活躍は目を見張るものがあり、2011年には、日本に甚大な被害を引き起こした東日本大震災の15日後に行われたドバイワールドカップにおいて、ヴィクトワールピサ(父ネオユニヴァース)が優勝。2着にトランセンドが入り、日本調教馬によるワンツーフィニッシュで、ドバイの地に日の丸をはためかせ、日本国民を勇気づける結果となった。その後も2014年のドバイデューティフリーをレコードで優勝し、日本競馬史上初となるワールド・ベスト・レースホース・ランキングの1位にランキングされたジャスタウェイ(父ハーツクライ)や、2016年イスパーン賞を10馬身差で勝ったエイシンヒカリ(父ディープインパクト)、2019年香港マイルを制したアドマイヤマーズ(父ダイワメジャー)などサンデーサイレンスを祖父に持つ馬たちが活躍した。
そして、2021年のブリーダーズカップでは2頭の牝馬が快挙を成し遂げる。ブリーダーズカップディスタフではマルシュロレーヌが、ブリーダーズカップフィリー&メアターフではラヴズオンリーユーが優勝。前者は日本生産馬として初めて北米のダートG1勝利を果たした上に、北米以外の調教馬として初めて同レースを制した。後者はこの年香港でもG1を2勝するなど日本調教馬として初めて海外G1年間3勝を達成し、アメリカの年度表彰であるエクリプス賞において最優秀芝牝馬に選出された。

第6章 海を越えて活躍する日本血統
日本調教馬が海外で好成績をおさめるのと比例して、日本血統が海外に広がりつつある。特筆すべきなのはやはりディープインパクト産駒である。ディープインパクトは日本において2012年から2022年まで11年連続でリーディングサイヤーとなっているが、海外でも多くのG1優勝馬を輩出。仏ダービーを制したスタディオブマン、英・愛オークスを制したスノーフォール、英2000ギニーを制したサクソンウォリアーなどヨーロッパのクラシック戦線での活躍馬を出している。
ディープインパクトだけにとどまらず、父にサンデーサイレンスを持つハットトリックやディヴァインライトなどの産駒が海外G1を優勝しているほか、オーストラリアにシャトル種牡馬として供用されたモーリスからは、ヒトツやマズがG1を制覇している。
海外で活躍する馬の血統表に、日本馬の名前があることが当たり前になる日も近いのかもしれない。

第7章 今も高く立ちはだかる壁
もはや世界レベルの強さとなった日本調教馬、そして日本生産馬であるが、今も届かない悲願のレースが存在する。フランスで行われる世界最高峰のレースの一つである凱旋門賞には、1969年のスピードシンボリ以降、昨年まで述べ33頭が挑戦してきたが、1999年のエルコンドルパサー、2010年のナカヤマフェスタ、2012年、2013年のオルフェーヴルの2着が最高である。海外のG1競走の中でも凱旋門賞の名前は広く浸透しているだけに、日本競馬の悲願を果たすとともに、国民的なヒーローとなる優勝馬が現れる日を競馬ファンは待っている。

世界のレース

凱旋門賞ウィークエンド|パリロンシャン競馬場
10月1週の日曜日に凱旋門賞が行われ、その前日も含めた2日間で、凱旋門賞を含め8つのG1レースが行われる。凱旋門賞にはこれまで述べ33頭の日本調教馬が挑戦するも、最高着順は1999年エルコンドルパサーと2010年ナカヤマフェスタ、2012年・2013年オルフェーヴルの2着である。
ロイヤルアスコット|アスコット競馬場
イギリスの王室主催で6月中旬に5日間かけて8つのG1レースが行われる。2022年、そのうちの一つであるプリンスオブウェールズSに日本ダービー馬シャフリヤールが参戦するも4着。観客にもドレスコードが定められているなど格式の高いスポーツイベントとなっており、例年計30万人ほどの観客が集まる。
ドバイワールドカップデー|メイダン競馬場
3月下旬に総賞金1200万アメリカドルを誇るドバイワールドカップをメインとして、5つのG1レースが同日に行われる。国際招待競走であることから世界各国の強豪が集まり、日本からも毎年各レースに有力馬が参戦。2011年のドバイワールドカップでは、ヴィクトワールピサとトランセンドがワンツーフィニッシュを果たしたほか、各レースで良績を残している。
香港国際競走|シャティン競馬場
12月の2週頃の日曜日に4つのG1レースが行われる。国際招待競走であり、1年の締めくくりであることから、世界各国から有力馬が集まる。日本調教馬は全てのレースで優勝馬を出しているなど相性が良く、特に香港カップ(G1昇格後)では6勝をあげている。
メルボルンカップ|フレミントン競馬場
11月の第1火曜日に開催されるオーストラリアで最も有名なレース。「The race that stops a nation(国の動きを止めるレース)」と呼ばれ、レース当日はヴィクトリア州の「祝日」に指定されており、毎年10万人近い観客が競馬場に詰めかける。日本調教馬は2006年にデルタブルースとポップロックがワンツーフィニッシュを果たしている。
ケンタッキーダービー|チャーチルダウンズ競馬場
5月の第1土曜日に開催されるアメリカ競馬の3歳牡馬最高峰のレース。「スポーツの中で最も偉大な2分間」とも言われており、アメリカで最も長く開催を続けるスポーツイベントとして記録され、「競馬は知らないがケンタッキーダービーは知っている」と言われるほど、春の国民的行事となっている。日本調教馬はこれまで4頭が参戦するも、6着が最高である。

第1章 日本ダービーとは
今年、日本ダービーは90回目を迎える。「ダービー」という名前は競馬ファンではなくても耳にしたことがあるように、中央競馬で開催されているGⅠの中でも特に親しまれているレースである。
ただ、日本ダービーは副称であり、正式名称は「東京優駿」である。世界各国でダービーと呼ばれるレースが行われており、競馬主要国と言われるアメリカではケンタッキーダービー、イギリスではダービーステークス(エプソムダービー)、フランスではジョッケクルブ賞(仏ダービー)との名で呼ばれている。
そもそもダービーはイギリスが発祥の地であり、日本ダービーはイギリスのダービーステークスを模範とし、出走できるのは3歳馬だけで、舞台は芝2400m。この日本ダービーと皐月賞、菊花賞は「クラシック三冠競走」と呼ばれており、「最も速い馬が勝つ」と言われる皐月賞、「最も強い馬が勝つ」と言われる菊花賞に対して、日本ダービーは「最も運のいい馬が勝つ」とも言われている。その中でも日本ダービーは3歳馬の頂点を決めるレースと位置付けられており、日本ダービーに優勝することは全てのホースマンの夢でもある。

第2章 勝つためのダービーポジション
最も運のいい馬が勝つと言われる日本ダービーだが、それはかつてフルゲートが現在よりも遥かに多い頭数であったことも関係している。1953年は過去最多となる33頭が出走していたが、こうなると道中の位置取りが勝負の分かれ目ともなってしまう。日本ダービーが行われる東京競馬場芝2400mは、ゴール前の直線が長く、一般的には差しや追い込み馬にとって不利もないコースとされている。それでも多頭数となれば、後方からレースを進めた馬は前に抜け出ることもままならず、場合によっては不利を被る可能性も出てくる。そのため、「ダービーを勝つためには1コーナーを10番手以内で回らなければいけない」という「ダービーポジション」という言葉も生まれたが、今や脚質に関係なく、日本ダービーも「強い馬」が勝つレースへと変わってきた。

第3章 ダービー馬はダービー馬から
日本ダービーはサラブレッドとして優れた馬を決める、種牡馬選定競走とされている。ダービー馬のほとんどが引退後は種牡馬となっているだけでなく、ダービー馬の産駒からダービー馬が多く誕生している。日本競馬で初めて親仔ダービー制覇を果たしたのは、第2回の優勝馬であるカブトヤマと、第14回の優勝馬であるマツミドリとなる。
以後、シンボリルドルフとトウカイテイオー、タニノギムレットとウオッカなど15組が親仔ダービー制覇を果たしている。その中でも唯一の父娘制覇となったのがタニノギムレットとウオッカであるが、ウオッカも含めて、牝馬の日本ダービー制覇は3頭しかいないだけに、今後この偉業が達成されるのはかなり難しいとも言えそうだ。
そして第72回優勝馬のディープインパクトは、ディープブリランテを皮切りに父として最も多い7頭のダービー馬を送り出している。中でもコントレイルは、親仔で日本ダービーを制しただけでなく、親仔で無敗のクラシック三冠制覇という偉業を成し遂げている。

第4章 外国産馬への開放
日本ダービーはかつて、日本国内で誕生した馬しか出走できなかった。一時期は「持込馬」と呼ばれる、海外で交配した後に日本に輸入されて誕生した馬も外国産馬と同じ扱いをされており、この規定に阻まれる形で日本ダービーに出走できなかった馬がいる。そのうちの1頭に、通算成績8戦8勝、その8戦でつけた着差の合計が61馬身であり、のちに顕彰馬にも選出されているマルゼンスキーがいる。この時、鞍上を務めた中野渡清一騎手は「賞金もいらないし、大外枠でもいい。ほかの馬の邪魔をしないようにずっと外を回ってくるから、ダービーに出してほしい」と日本ダービー出走への思いを語ったとされている。ホースマンにとって、日本ダービーに出走すること自体がまた一つの目標となっているのだ。
そこから24年の時を経て、2001年に外国産馬は2頭まで出走可能となった。そして国際競走に指定された2010年からは外国産馬に加え、外国調教馬も含めて最大9頭の出走が可能となっている。開放元年となった2001年には、日本ダービーの外国産馬「開放」と、「開国」を迫ったペリー率いるアメリカ艦隊の蒸気船の通称に由来するクロフネが、その名の通りに出走するも5着という結果だった。外国産馬へ開放されて以降、2002年のシンボリクリスエスが2着となったのが最高着順で優勝馬は出ていないが、それだけ内国産馬のレベルが上がったということが言えるのではないだろうか。

第5章 ダービーで生まれた数々のドラマ
第二次競馬ブームが起こったとされる1980年代後半以降、若い世代や女性のファンが増えていった。1985年から日本ダービーへの来場者は年々増加し、19万6517人という入場人員を記録した1990年の日本ダービー。アイネスフウジンに騎乗した中野栄治騎手は、21頭の出走馬を従えるかのように先手を奪うと、そのまま影も踏ませぬ逃げ切り勝ちで優勝を果たした。ウイニングランでは勝者を称える「ナカノコール」が起こったが、これが競馬場における最初のコールとも言われており、現在も名場面として語られている。
また1993年の日本ダービーでは、デビュー27年目、数多くの大レースを勝利しながらも日本ダービーには手が届かず、19回目の日本ダービー挑戦となった柴田政人騎手騎乗のウイニングチケットが優勝。中野栄治騎手同様、ウイニングランでは「マサトコール」が競馬場に響き渡り、レース後のインタビューでは「世界中のホースマンに第60回日本ダービーを勝った柴田政人です、と伝えたい」という名言が生まれた。
そして2000年の日本ダービー。史上初の日本ダービー3連覇がかかった武豊騎手騎乗で1番人気のエアシャカールと、河内洋騎手騎乗で前哨戦の京都新聞杯を制し、日本ダービー出走の切符を掴んだアグネスフライトの壮絶な競り合いもまた、名シーンとなっている。河内洋騎手も柴田政人騎手同様、その時デビュー27年目、牝馬三冠馬のメジロラモーヌをはじめ数多くの名馬に跨ってきたが、日本ダービーには手が届いていなかった。17回目の日本ダービー挑戦で、同じ厩舎出身の弟弟子でもある武豊騎手騎乗のエアシャカールを下しての勝利となった。フジテレビの中継での「河内の夢か、豊の意地か」というゴール前の名実況は多くのファンを興奮させた。
日本ダービーは全てのホースマン、そしてファンの夢が詰まったレースなのだ。

第6章 第90回日本ダービー
日本ダービーは全てのホースマン、ファンの夢が詰まったレースだからこそ、毎年違ったドラマが生まれ、これまで89のドラマが紡がれてきた。この日に向けて育成・調教に関わる人々、公正な競馬運営を行う関係者、そして競馬を盛り上げるファンの存在があるからこそ、レース自体が一つの「物語」となっている。
90回目の節目を迎える今年の日本ダービー。まだ達成されていない父仔3代ダービー馬は誕生するのか、悲願のダービー制覇はあるのか、それとも誰も想像がつかない偉業が達成されるのか。誰もが“日本ダービー”というレースに期待を膨らませている。
第90回日本ダービーでは、どんな「物語」が待っているのか。歴史的瞬間を目に焼き付けよう。
ダービー年表
- 1932年
- イギリスのダービーステークスに範をとり、競走体系の確立と競走馬の資質向上を図るという意図から、3歳牡馬・牝馬限定の重賞競走「東京優駿大競走」として創設され、目黒競馬場の芝2400mで開催。ワカタカが優勝。
- 1934年
- 府中にある現在の東京競馬場に舞台を移す。
- 1937年
- ヒサトモが牝馬として初めて優勝。2着にもサンダーランドが入り、牝馬でのワンツーフィニッシュとなる。
- 1938年
- 「東京優駿競走」に名称変更。
- 1943年
- 牝馬のクリフジが優勝。
- 1947年
- 戦後初の開催。マツミドリが優勝。父カブトヤマは第2回の優勝馬であり、初の親仔制覇を果たす。
- 1948年
- 「優駿競走」に名称変更。
- 1949年
- 23頭中19番人気のタチカゼが優勝。単勝の払戻金が55,430円と史上最高の大波乱に。
- 1950年
- 「東京優駿競走」に名称変更。「日本ダービー」という副称が付けられる。
- 1954年
- 地方競馬出身馬として初めてゴールデンウエーブが優勝。
- 1964年
- 「東京優駿(日本ダービー)」に名称変更。
- 1984年
- グレード制が導入。GⅠに格付。
- 1990年
- アイネスフウジンが優勝。196,517人という最多入場人員を記録。2023年現在、東京競馬場のみならず、JRA史上最多入場人員となっている。
- 1994年
- ナリタブライアンが優勝。ダービー1レースでの最高の売上金額「56,786,290,400円」を記録。
- 1995年
- 指定交流競走となり、地方所属馬の出走が可能に。
- 1996年
- デビューから3戦目となるフサイチコンコルドが歴代最少キャリアで優勝。
- 1999年
- 武豊騎手騎乗のアドマイヤベガが優勝。前年のスペシャルウィークに続き史上初の連覇を達成。
- 2001年
- 外国産馬が2頭まで出走可能となる。クロフネとルゼルが出走するも、5着、14着(優勝馬:ジャングルポケット)。
- 2003年
- ミルコ・デムーロ騎乗のネオユニヴァースが優勝。外国人騎手初制覇を果たす。
- 2004年
- 地方所属馬として初めてコスモバルクが出走。2番人気に支持されるも8着に敗れる(優勝馬:キングカメハメハ)。
- 2005年
- ディープインパクトが優勝。歴代最高単勝支持率となる73.4%を記録。
- 2007年
- 牝馬のウオッカが優勝。父は2002年の優勝馬タニノギムレットであり、史上初の父娘制覇を果たす。
- 2008年
- 四位洋文騎手騎乗のディープスカイが優勝。前年のウオッカに続き、連覇を達成。
- 2010年
- 国際競走に指定。外国産馬に加え、外国調教馬を含め9頭が出走可能となる。
- 2021年
- 福永祐一騎手騎乗のシャフリヤールが優勝。前年のコントレイルに続き、連覇を達成。
- 2022年
- ドウデュースが優勝。武豊騎手は日本ダービー6勝目となり、史上最多勝利及び53歳2ヵ月15日での優勝という史上最年長記録を達成。勝ち時計の2分21秒9はレースレコードだった。

HEROたち
第1章 夏競馬から誕生する未来のGⅠホースたち
「夏競馬」での楽しみの一つが、毎週のようにデビューを重ねていく2歳馬の存在だ。
以前は、クラシックを目指していくような馬たちは「秋競馬」でデビューしていく傾向が強かった。しかしここ数年、話題を集めているような評判馬でも、早期にデビューをさせるケースが増えてきた。牧場での育成技術が向上したことが仕上がりの早さに繋がり、早い時期に勝利をあげることで、その後のローテーションを組みやすくなるだけでなく、更なる成長を期して、育成施設のある牧場での再調整もしやすくなるといったメリットがあるからであろう。また早い時期の新馬戦の条件も、従来のスプリント中心のレースからマイル、中距離と距離の幅が広がり、未来のクラシックホースのデビューが多く見られるようになった。

第2章 クラシックでの活躍馬の多い札幌競馬場
夏でも涼しい気候に加えて、クッションの利いた洋芝の上でレースが行われる札幌競馬場は、環境がいいことからこの地でデビューする馬も多く、これまで多数のクラシックホースが送り出されている。ジャングルポケット、タニノギムレットといったダービー馬を筆頭に、2020年にエフフォーリアは札幌でデビューし、翌年皐月賞を制覇。他にも2017年のオークスを制したソウルスターリングや、2016年の皐月賞を制したディーマジェスティも札幌でデビューしている。
中でもジャングルポケットのデビュー戦は「伝説の新馬戦」の一つにあげられており、朝日杯3歳Sの勝ち馬メジロベイリーや、東京スポーツ杯3歳S勝ち馬のタガノテイオーが出走していただけでなく、出走馬が全て勝ち上がるというハイレベルなレースだった。
今後も伝説となるようなレースや競走馬が、札幌から誕生するか注目される。

第3章 2歳戦を盛り上げる函館競馬場
世代最初の重賞である函館2歳Sが行われることもあり、函館デビューの馬たちが2歳戦線を盛り上げてくれることも多い。2020年に阪神ジュベナイルフィリーズを制し、白毛馬として世界で初めてGⅠ勝利を果たしたソダシや、2012年の朝日杯フューチュリティSを制して2歳チャンプとなったロゴタイプ、同年の皐月賞、菊花賞を含むGI6勝をあげたゴールドシップ、2005年に札幌2歳Sで初重賞制覇をあげた2007年のJRA賞年度代表馬アドマイヤムーンも函館でデビューし、早期から活躍を見せていた。
札幌も含めた北海道シリーズ全体に言えるが、美浦や栗東の競走馬と騎手が一堂に会するのも函館開催の特徴であり、のちにGⅠレースを盛り上げる馬たちが東西から満遍なく誕生している。

第4章 東京芝マイルGⅠと意外な繋がりのある福島競馬場
福島競馬場は全場で最も一周距離が短く、器用に立ち回れる先行馬が有利というイメージがあるが、夏開催の福島競馬場でデビューし、のちにGⅠ馬となる馬たちにはそのイメージとは異なる、ある共通点が見られる。
牝馬三冠を含むGⅠ5勝をあげたアパパネ、香港カップを制し海外G1馬となったノームコア、そして前川清さんの所有馬としても知られているコイウタは夏の福島開催でデビューし、のちにヴィクトリアマイルを制している。また、柴田大知騎手に念願のGⅠタイトルを授けたマイネルホウオウ、当時地方所属の内田博幸騎手に初のJRAGⅠタイトルをもたらしたピンクカメオも福島でデビューし、のちにNHKマイルカップを優勝。ピンクカメオが勝利した新馬戦には、安田記念で父エアジハードとの親仔制覇を果たすことになるショウワモダンも出走していた。
これらの馬は奇しくも東京競馬場の芝マイルGⅠを制しており、小回りの福島競馬場でレースセンスを磨かれたことが、のちの活躍へと繋がっているのかもしれない。

第5章 新潟競馬場から世界へ
シンボリルドルフ、オルフェーヴル、アーモンドアイ。この3頭はいずれも新潟デビューから三冠馬に輝いた。その他にも2019年のダービー馬ロジャーバローズ、阪神ジュベナイルフィリーズ、大阪杯、エリザベス女王杯と阪神競馬場で異なるGⅠ競走3勝を挙げたラッキーライラック、ファン投票で出走馬を決めるレースである宝塚記念、有馬記念をともに制したドリームジャーニーもまた、新潟デビューである。
近年、次々とGⅠ級の大物が誕生している新潟デビュー馬たちだが、その活躍は日本国内だけに留まらない。前述したオルフェーヴルとアーモンドアイも海外で実績を残した名馬であるが、他にもドバイデューティフリーをレコードタイムで優勝し、その年のワールドベストレースホースランキングにおいて、日本競馬史上初めて1位となったジャスタウェイがいる。また今年のドバイワールドカップデーにおいては、新潟デビューのイクイノックスとウシュバテソーロがそれぞれドバイシーマクラシック、ドバイワールドカップを優勝。2019年のJRA賞年度代表馬に輝いたリスグラシューも新潟でデビューし、オーストラリアのG1であるコックスプレートを制している。
新潟の長い直線は世界の大レースへ飛び立つ滑走路と言ってもいいのではないだろうか。今後も世界で活躍するような馬が新潟から誕生するのか、注目される。

第6章 西のスターが集う中京競馬場
中京競馬場で夏の新馬戦が行われるようになったのは2012年からである。それだけに他の競馬場と比較すると、夏の中京デビューのGⅠ馬の数は決して多いとは言えないが、その中でも日本ダービー馬であるワグネリアンや、桜花賞で最後方から他馬をまとめて差し切ったハープスターが中京でデビューを飾っている。ワグネリアンはデビューから福永祐一騎手(現調教師)とコンビを組み、ダービージョッキーの称号を与え、ハープスターはデビューから川田将雅騎手とコンビを組み、川田騎手がトップジョッキーへの道を切り拓くきっかけともなった。
このように中京デビュー馬の活躍や、新潟と同様に直線の距離が長いことなどから、近年では栗東所属の評判馬のデビューも多い。クラシックでの活躍をはじめ、競馬界を盛り上げる名馬が、中京競馬場からも多く誕生していくことだろう。

第7章 年々目が離せない小倉競馬場デビュー
2005年に小倉でデビューをしたメイショウサムソンは、小倉デビューの馬として初めてダービー馬となったが、昨年の日本ダービーを制したドウデュースもまた夏の小倉デビューである。2014年のダービー馬ワンアンドオンリーも小倉でデビューしており、近年は小倉デビューの馬も見逃せないものとなっている。
小倉デビューのGⅠ馬たちは、クラシックでの活躍よりも、古馬となってから能力を開花させたケースも多い。ヒシミラクルは菊花賞を制した後、4歳時に天皇賞(春)と宝塚記念を優勝。ラブリーデイは5歳の中山金杯で重賞初勝利をあげると、その年には宝塚記念と天皇賞(秋)を含めた重賞6勝の活躍で、その年のJRA賞最優秀4歳以上牡馬に輝いている。小倉で初戦を飾り、3歳時に秋華賞を制したクロノジェネシスは、4歳時の宝塚記念と有馬記念、5歳時に宝塚記念を連覇するなどの活躍を見せた。
今後も小倉でデビューを果たす2歳馬たちは、クラシック戦線での活躍だけでなく、古馬となってからも息長く応援できる馬となっていくに違いない。

第8章 ヒーローへの第一歩
競走馬たちはクラス分けをされて、クラスごとにレースを走るのが基本となっているが、新馬戦に限っては分け隔てなく様々な実力の馬が一緒に走るレースである。全てのヒーローたちの第一歩となるのが新馬戦で、将来の競馬界を賑わすヒーローを探し出すということも、新馬戦の大きな楽しみの一つである。
一方で全てのヒーローがデビューから順当に勝ち上がっているとも限らない。デビュー戦を勝利で飾れなくても、メイショウサムソンやワンアンドオンリーはダービー馬に輝き、アパパネやアーモンドアイは三冠馬となっている。デビュー勝ちをすることがすべてではなく、レースを使われながら力を付けていく馬も多くおり、敗戦の中でも才能の片鱗を見つけ出すという楽しみもある。
これからも夏の新馬戦からは目が離せない。
夏競馬の中心となる競馬場と、
そこでデビューした
クラシックレース優勝馬
※2000年以降デビュー馬

札幌競馬場
4コーナーからゴール板までの距離は函館競馬場に次ぐ短さ。芝コースの水はけが抜群で、馬場状態が重になることは少なく、これまで※不良になったことがないほどだ。
2020年8月23日に芝2000mの新馬戦でデビューしたエフフォーリアは、4戦無敗で皐月賞を制覇。同年秋には、3歳馬ながら天皇賞(秋)と有馬記念を制し、2021年のJRA年度代表馬に選出された。
※2023年6月2日現在

函館競馬場
1896年に開場と、日本で最も長い歴史を持つ競馬場で、直線の距離はJRA全場の中で最も短い。世代最初の重賞である函館2歳ステークスが行われる。
2012年6月24日に芝1200mの新馬戦でデビューしたロゴタイプは、2歳時に朝日杯フューチュリティSを制し2歳チャンプに輝く。その後3歳時に皐月賞、6歳時に安田記念を制するなど息の長い活躍を見せた。

新潟競馬場
芝の外回りコースで658.7mという日本一長い直線を有し、日本で唯一直線だけのレースがある競馬場。
2017年8月20日に芝1600mの新馬戦でデビューしたラッキーライラックは、エリザベス女王杯2連覇を含むGⅠ4勝。香港ヴァーズで2着に入るなど、海外でも活躍を見せた。

福島競馬場
JRA全場の中で一周距離が最も短いが、一周する間にアップダウンを2回繰り返すユニークな競馬場。夏競馬開催は8日間のみと中京と並んで最も少ない。
2012年6月23日に芝1800mの新馬戦でデビューしたマイネルホウオウは、2013年にNHKマイルカップを優勝。鞍上の柴田大知騎手にデビュー18年目で初めての平地GⅠ勝利と通算200勝目を授ける記録的な勝利であった。

中京競馬場
2012年にリニューアルオープンし、それと同時に夏の新馬戦が行われるようになった。直線を向いてすぐの地点に急坂が設けられており、タフな競馬場と言われている。
2013年7月14日に芝1400mの新馬戦でデビューしたハープスターは、2014年の桜花賞を制覇。最後方からレースを進め、直線だけで他馬をまとめて差し切るという派手なレースは今なお語り継がれている。

小倉競馬場
一周距離は福島競馬場に次ぐ短さであり、平坦なコースで坂は設けられていない。
2018年9月2日に芝1800mの新馬戦でデビューしたクロノジェネシスは、牝馬ながら宝塚記念2連覇、有馬記念優勝などGⅠ4勝。2020年の宝塚記念での6馬身差での勝利はレース史上最大着差となっている。


名コンビ
「人馬一体」という言葉があるように、名馬にはパートナーとして欠かせない騎手がいる。名馬との出会いにより名手へ、名手との出会いにより名馬へと昇華していく。来年JRAは創立70周年を迎えるが、長い歴史の中で数々の名コンビが誕生してきた。名コンビは競馬ファンの気持ちをより一層熱く、高揚させ、私たちを虜にしてくれる。
第1章 シンボリルドルフ×岡部幸雄
JRAで史上初めて通算2900勝を達成するなど、38年にも及ぶ騎手生活の中で、様々な記録を打ち立ててきた岡部幸雄元騎手。その岡部騎手に競馬を教えたとされるのが、前人未到の無敗のクラシック三冠馬となったシンボリルドルフである。
2歳時までは岡部騎手がシンボリルドルフに競馬を教えていた。芝1000mの新馬戦を芝1600mでのレース運びを意識させながら初戦を勝利で飾ると、次走の芝1600mのいちょう特別では芝2400mの競馬をするかのように、折り合いを重視する内容で勝利を果たす。
その後も連勝を重ねていく中で、シンボリルドルフは競馬に勝つことを学んでいたのかもしれない。初重賞制覇となった弥生賞に続き、クラシック第一弾の皐月賞でも、先行してから抜け出しを図る危なげないレース内容で優勝を果たした。
迎えた日本ダービー。早めに先行馬を捉えるべく、向正面からゴーサインを出した岡部騎手だったが、シンボリルドルフはその指示に反応しない。だが、直線に入ると悠然と脚を伸ばしていき、まるでタイミングを計ったかのように前を行く馬たちを交わしての完勝。レース後の岡部騎手は、「ルドルフに競馬を教えてもらった」と話した。
まさに名コンビとなった岡部騎手とシンボリルドルフは、無敗のまま菊花賞を勝利し三冠制覇。このコンビで通算16戦13勝、GⅠ勝利数は当時として史上最多の7勝という成績を残し、競馬史に名を刻んだ。

第2章 メジロライアン×横山典弘
「メジロ」の冠名が付く馬が、日本競馬界を席捲した1990年代初頭。その時、同世代のメジロマックイーン、メジロパーマーと共に、ターフを沸かせていたのがメジロライアンだった。
メジロライアンのデビュー3戦目の未勝利戦からコンビを組んだのは、当時デビュー4年目だった横山典弘騎手。コンビを組み2戦目で初勝利をおさめ、勢いづいた当コンビは弥生賞を制してクラシック戦線に名乗りをあげる。当時「何でも俺に乗せてみろ。片っ端から全部、勝たせてやる!!」くらいの気持ちでいたという横山騎手。しかしその前に立ちはだかったのは強力なライバルたちだった。皐月賞では好位から抜け出したハクタイセイらを交わし切れずに3着。1番人気の支持を集めた日本ダービーでは、アイネスフウジンに逃げ切りを許し2着。最後の一冠となる菊花賞では、メジロ牧場時代の僚馬でもあるメジロマックイーンを捉えられずに3着と惜敗が続いた。同年の有馬記念はオグリキャップの奇跡の復活の前に2着、翌年の天皇賞(春)でも本格化したメジロマックイーンが優勝したのに対して、メジロライアンは4着とあと一歩のレースを繰り返していた。
今の時代であれば乗り替わりとなってもおかしくない状況であったが、陣営は横山騎手を乗せ続け、その悔しさを晴らしたのが宝塚記念だった。これまでのレース内容とは一変し、早めに抜け出しを図ったメジロライアンは、メジロマックイーンの追撃を振り切って悲願のGⅠ制覇を遂げた。この勝利に横山騎手は「ダービー、菊花賞、天皇賞と勝てなくて苦しかったけれど、やっとライアンでGⅠを勝てて最高の気分」と語った。今でも横山騎手はファンを驚かせる騎乗をみせているが、メジロライアンとの出会いが礎となっているのかもしれない。
現役引退後は種牡馬となり、メジロドーベルやメジロブライトといったGⅠ馬を送り出すと、その後はメジロ牧場(現在のレイクヴィラファーム)で功労馬として繋養。2016年に29歳の生涯を終えると、納骨式に参加した横山騎手は自らが建立したお墓を前にして、「今の僕が騎手でいられるのはメジロライアンがいたからこそ」と涙ながらに語った。

第3章 ナリタトップロード×渡辺薫彦
1999年の日本ダービー。1番人気に支持されたナリタトップロードの背中には、当時デビュー6年目の渡辺薫彦騎手(現調教師)の姿があった。
ナリタトップロードは渡辺騎手に初めての重賞タイトルをもたらした馬でもあった。きさらぎ賞で人馬共に重賞初勝利をあげると、続く弥生賞ではアドマイヤベガの追撃を抑えこんで勝利をあげた。皐月賞ではテイエムオペラオーの猛追の前に3着に敗れ、日本ダービーではそのテイエムオペラオーを交わして先頭に立つも、後ろから脚を伸ばしてきたアドマイヤベガに交わされ2着。レース後、渡辺騎手は悔しさで大粒の涙を流した。
最後の一冠となる菊花賞。皐月賞と日本ダービーの悔しさを晴らすかのように、ライバル2頭よりも先に動き出したナリタトップロードは、テイエムオペラオーの猛追を振り切って、待望のGⅠ初制覇。この勝利をきっかけに、更なる飛躍が期待された渡辺騎手とナリタトップロードだったが、その後勝ちきれないレースが続いていく。
2000年の有馬記念と翌年の京都記念は的場均騎手が騎乗したが、阪神大賞典から再び渡辺騎手が手綱を取り、そのレースでは当時の芝3000mのレコードタイムで優勝。さらにその翌年の阪神大賞典も連覇するなど、渡辺騎手とのコンビで息の長い活躍を続けていった。渡辺騎手の怪我でやむなく乗り替わりとなることもあったが、引退レースとなった有馬記念では、ナリタトップロードの背中には渡辺騎手の姿があった。長きに渡り愛された名コンビとして語り継がれている。

第4章 タップダンスシチー×佐藤哲三
1984年、日本調教馬として初めてジャパンCを逃げ切って優勝したカツラギエース。その快挙をきっかけに騎手を目指したのが、当時中学生だった佐藤哲三騎手である。それから19年後の2003年、佐藤騎手はジャパンCをタップダンスシチーと共に、その時の再現とばかりに逃げ切ってみせた。
タップダンスシチーの主戦として知られる佐藤騎手だが、意外なことに初騎乗はデビュー23戦目、5歳時の朝日チャレンジCだった。そのレースで初の重賞タイトルを手にし、以後、引退までこのコンビは継続していく。
佐藤騎手はタップダンスシチーに騎乗していく中で、その先行力を生かす騎乗を見せていく。2002年の有馬記念で13番人気ながら2着に激走。すると翌年、オープン特別、金鯱賞と勝ち星を重ねていく。宝塚記念でも3着に入り、秋には京都大賞典で逃げ切り勝ちをおさめ、トップレベルの馬であることを証明。続くジャパンCでは先頭に立ってレースの主導権を握ると、直線では後続との差はみるみる開いていき、2着のザッツザプレンティに9馬身差を付ける圧勝。管理する佐々木晶三調教師にとっては、これが初めてのGⅠ勝利となった。翌年の宝塚記念でも3コーナー過ぎから先頭に躍り出たタップダンスシチーは、そのままゴールまで押し切って、2つ目のGⅠタイトルを手にした。
タップダンスシチーとのコンビで見せる佐藤騎手の自信に溢れた騎乗は、馬を信頼しているからこそ。まさに2000年代を代表する名コンビであった。

第5章 アーモンドアイ×C.ルメール
史上5頭目となる牝馬三冠を含め、芝GⅠで歴代最多の9勝をあげたアーモンドアイ。そのすべてのGⅠレースで手綱を取ったのがC.ルメール騎手である。
フランスのトップジョッキーであり、日本でも短期免許期間中に数々のGⅠレースを勝利してきたC.ルメール騎手は2015年に日本での騎手免許を取得。2017年に外国人騎手として初めてJRA全国リーディングジョッキーに輝くなど、まさに脂が乗った時期にコンビを組んだのがアーモンドアイだった。
牝馬三冠を達成した2018年のジャパンCでは、芝2400mの世界レコードとなる2分20秒6で優勝。 C.ルメール騎手はアーモンドアイの活躍が後押しする形で、この年はGⅠを8勝、年間勝利数は過去最多の215勝をあげ、2年連続でリーディングジョッキーに輝いた。
C.ルメール騎手のもとには数々の騎乗依頼が届いたが、それでも優先したのはアーモンドアイの騎乗だった。4歳時にはドバイターフで海外G1初制覇を果たし、天皇賞(秋)も優勝。5歳時もヴィクトリアマイルで勝利をあげると、天皇賞(秋)を牝馬として初めての連覇を果たす。引退レースとなったジャパンCでは、その年の無敗の三冠馬コントレイルと、無敗の牝馬三冠馬デアリングタクトも出走してきたが、早めに先頭に躍り出たアーモンドアイは、2頭の追撃を振り切って勝利。その年の12月19日に行われた引退式でC.ルメール騎手は、「彼女の背中で味わったスリルと興奮を永遠に忘れません」と別れを告げた。

番外編 競走馬と厩務員~ゴールドシップ×今浪厩務員の絆~
「王様」と称されるほどゴールドシップは気性の激しい馬だった。「突然、立ち上がったり、暴れたりした。それがだんだんひどくなって、他の馬を威嚇したりする。特に他馬に後ろにつけられるのが嫌いで、『一発蹴ってやろうか』という雰囲気になった」と担当だった今浪隆利厩務員は振り返る。
当時、今浪厩務員が“自分の役目”として「少しでも快適に日々を過ごさせてやること」を考えていた。そのための重要なアイテムがカラフルなバスタオルだった。これを鼻前に差し出すと、うれしそうにくわえる。引っ張ったり振り回したりして遊ぶのだ。時間に制限はなく、「シップの気が済むまで相手をしてやる」。遊び終わった後、型破りなヒーローの目は穏やかになっていたという。
どんなに能力の高い馬でもレースで力を発揮できなければ輝けない。足かけ5年にもわたりコンビを組んだ今浪厩務員は、ゴールドシップにとって精神安定剤のような存在だったのだろう。「レース前、馬房でテンションがすごく上がってしまう時があった。そんな時はシップが落ち着くまでずっと顔を見合わせていたよ」。GⅠ6勝は、絆があってこそ成し遂げた偉業だった。


有馬記念は競馬ファンのみならず、一般の方からの認知度も高い“年末の風物詩”として親しまれている。その理由の一つとして、『ファン投票』により出走馬が選出される画期的な仕組みが挙げられるだろう。通常、ファン投票では、実力のある馬や個性が強く人気のある馬などが上位に選出され、多くのファンの夢を乗せて出走する。世間から大きな注目を集めるこのレースは、ファン投票上位の馬がその期待に応えるように優勝することが多いが、時には大きな波乱を巻き起こすヒーローが誕生することがある。
第1章 1991年 乾坤一擲のレコード勝利
この年の有馬記念は15頭立てで行われ、ファン投票1位と単勝1番人気の支持を集めていたのはメジロマックイーンであった。メジロマックイーンは前年の菊花賞を制した上に、古馬となった同年に天皇賞(春)を優勝し、祖父メジロアサマ、父メジロティターンと親仔三代天皇賞制覇を達成。前走のジャパンCでは日本調教馬最上位の4着に入っており、実力最上位との見方が強かった。
しかしレースでは、ツインターボが作り出した淀みのない流れが、波乱を巻き起こす。前半の1000m通過は59秒0と、冬の荒れた馬場コンディションを考えるとかなりのハイペースであった。第3コーナーの手前でツインターボが失速すると、その後ろにいたプレクラスニーが先頭に立ち、その後ろをダイタクヘリオスが追走していく。メジロマックイーンやナイスネイチャといった人気馬がその2頭の外に進路を向け、中山競馬場の急坂を登り終えてから、プレクラスニーとダイタクヘリオスを捉えにかかったメジロマックイーンであったが、その時果敢に内を突き、一気に先頭に立っていた馬が一頭いた。それはファン投票40位、単勝14番人気のダイユウサクであった。メジロマックイーンは追いすがるも結局届かず、ダイユウサクは前評判を覆す大金星をあげたのだった。
単勝の払戻金は有馬記念史上初の万馬券となる1万3790円を記録し、現在もその配当記録は塗り替えられてはいない。しかも勝ちタイムの2分30秒6は、1989年有馬記念の優勝馬であるイナリワンが記録した2分31秒7を1秒1も更新する芝2500mのJRAレコード(当時)でもあった。
ダイユウサクはデビューから32戦目で初のGⅠタイトルを獲得。それまで芝、ダートを問わず様々な条件のレースを経験していたが、勝ち鞍が2000mまでであったことに加えて、2500mで行われる有馬記念が自己最長距離のレースであったことも、戦前の評価の要因になっていたのであろう。
この年、ダイユウサクは年初に行われる重賞である金杯(西)も制しており、まさにダイユウサクに始まり、ダイユウサクに終わった1年であった。

第2章 1992年 下馬評を覆すGⅠ馬の意地
翌年1992年の有馬記念でも大波乱が起こる。この年の主役は、前走、父シンボリルドルフ以来となる日本調教馬によるジャパンC制覇を果たしたトウカイテイオー。今なお高い人気を誇る名馬だが、もちろんファン投票1位、単勝1番人気に支持されていた。そのほかにも菊花賞で二冠馬ミホノブルボンを退けて優勝したライスシャワーや、11番人気で天皇賞(秋)を制したレッツゴーターキン、マイルチャンピオンシップを連覇し、スプリンターズS(4着)から連闘で臨んできたダイタクヘリオスなど、グランプリレースに相応しく6頭のGⅠ馬が出走していた。その中には宝塚記念で逃げ切り勝ちをおさめたメジロパーマーも含まれていたが、秋競馬での惨敗が響き、ファン投票17位、単勝15番人気という評価での出走であった。
同年の天皇賞(秋)でも繰り広げられたメジロパーマーとダイタクヘリオスの逃げ争いが注目されたが、先手を取ったのはメジロパーマーであった。後方に待機した人気のトウカイテイオーを各馬が意識する中、メジロパーマーは後続との差を徐々に広げていきながらも、前半1000mを62秒6という逃げ馬にはおあつらえ向きと言える展開に持ち込んだ。2番手に控えていたダイタクヘリオスは抑えがきかなくなり、向正面から先頭に並びかけていくが、メジロパーマーの鞍上を務める山田泰誠騎手の手綱は動かず、折り合いに専念。最後の直線に入ると、スタミナ比べに屈したダイタクヘリオスが失速する一方で、メジロパーマーは二の脚を使って後続との差を広げていく。ゴール手前でレガシーワールドが急追するもハナ差で凌ぎ、見事グランプリホースとなった。1番人気のトウカイテイオーは後方のまま11着、ライスシャワーも直線で伸びきれず8着に敗れる大波乱のレースとなった。単勝の払戻金は同レースの歴代2位となる4940円。2着のレガシーワールドが5番人気だったこともあり、その前年から導入された馬連の払戻金は、3万1550円の高配当を記録した。
メジロパーマーは短距離レースや障害レースに出走するなど、紆余曲折のある競走生活を送りながらも、逃げの戦法を武器にGⅠ2勝をあげた。勝つ時の爽快さに心打たれるファンが多かったことだろう。

第3章 2007年 中山巧者の大金星
2007年、日本競馬界は64年ぶりに日本ダービーを制した牝馬の誕生に興奮していた。その牝馬とはウオッカであり、この年の有馬記念ファン投票では堂々の1位に選出されていた。ただ、ダービー優勝以降は勝ち星から遠ざかってしまった影響か、単勝3番人気にとどまった。1番人気に支持されたのは、ファン投票の1位こそウオッカに譲ったが、同年に天皇賞春秋制覇を成し遂げたメイショウサムソンだった。ほかにも、ウオッカとライバル関係にあるとされていたダイワスカーレットや、その兄でマイルチャンピオンシップ連覇を達成したダイワメジャー、前年に海外G1制覇を果たしたデルタブルースや地方馬コスモバルクなど、役者揃いの有馬記念となった。
前半1000mは60秒5という淡々とした流れでレースが進んだが、3コーナーに差し掛かったところで徐々にペースが上がっていく。4コーナーで逃げるチョウサンとダイワスカーレットの間をつき、直線で先頭に踊り出たのはファン投票19位のマツリダゴッホ。メイショウサムソン、ウオッカといった人気馬が後方で伸びあぐねる中、マツリダゴッホは出走馬最速タイの上がり3ハロン36秒3でまとめあげての完勝だった。単勝9番人気、払戻金は5230円と、ダイユウサクに次ぐ有馬記念歴代2位の高額配当となり、3連単導入後の有馬記念では当時の最高配当となる80万880円を記録した。
不世出の大種牡馬・サンデーサイレンスのラストクロップとして誕生したマツリダゴッホは、クラシックには縁がなかったものの、有馬記念を含め中山の芝重賞で6勝をあげる活躍を見せた。翌年、翌々年の有馬記念では優勝こそ逃したものの、「中山巧者」ぶりが評価される形でファン投票や単勝人気では常に上位の支持を集めるなど、ファンから愛されたヒーローであった。

第4章 2023年 新たなるヒーローの誕生?
ファン投票によって出走馬が決まる有馬記念は、ファンの想いや夢が詰まったレースだ。ここ数年の有馬記念は、ファン投票で上位に選出された馬が順当に勝ち上がっているが、展開や得手不得手によってどの馬にも勝機があり、そこが競馬の面白さのひとつと言えよう。
近年、日本調教馬が海外のレースで活躍することが当たり前と言えるほど、日本競馬は世界でも高いレベルに到達している。そんなハイレベルな日本競馬界の一年を締めくくる今年の有馬記念ではどのようなドラマが生まれ、どんなヒーローが誕生するのだろうか。
有馬記念とファン投票の成り立ち、歴史
中央競馬にファン投票で出走馬が選出されるレースは2つある。それは宝塚記念と有馬記念だ。中でも年末の有馬記念は、その年の競馬界を沸かせたスターホースたちが集結するレースとして、一般の方々にも広く認知されているが、その始まりは、1956年の中山競馬場の新スタンド竣工を機に、当時の理事長だった有馬頼寧氏が提案した「中山グランプリ」である。プロ野球のオールスター戦のようにファン投票によって出走馬を選出し、ファンがより一層競馬に親しみを感じられるようなレースにするという目新しい目的を持ったものであった。第1回は12頭の出走馬の中に天皇賞の優勝馬が3頭、クラシック競走の優勝馬も4頭が名を連ねるハイレベルなレースとなった。翌年、急逝した有馬氏を称える形で、「中山グランプリ」は同氏の名前を取った「有馬記念」と改称され、1996年には1レースにおける世界の競馬史上最高額となる875億円を売り上げるなど、いまや有馬記念は年末を代表するイベントとなっている。今年も日本中の注目を集める中、ファン選出馬たちによる夢の対決が、暮れの中山競馬場で繰り広げられる。
歴代ファン投票の得票数・得票率ランキング
ファン投票は、自分が出走させたいJRA所属の 3 歳以上の現役競走馬を 1~10 頭まで選んで投票することができ、有馬記念の第 1 回特別登録を行ったJRA所属馬の中から、ファン投票による得票数の多い上位 10 頭に優先出走権が与えられる。前述した通り、ファンから人気がある馬が上位に選出されるのである。
では、歴代のファン投票でどの馬が最も多くの票数を獲得したのかというと、2022 年のファン投票で 1 位となったタイトルホルダー(36 万 8304 票) 。2 位も 2022 年のファン投票で 2 位となったエフフォーリア(30 万 661 票)で、この 2 頭が史上初めて 30 万票の大台を突破した。
一方、得票率を見てみると、歴代の得票率で83.1%を記録した2022年のタイトルホルダーがトップだが、2位(2017年:79.9%)と、3位(2018年:79.0%)に入っているのがキタサンブラック。そして4位(2006年:78.7%)と5位(2007年:77.5%)にはディープインパクトがランクインしている。
得票数のトップ10は全て2020年以降の競走馬であり、これは手軽なWEB投票がファンに定着したことが大きいだろう。そのためWEBでの投票がまだ主流でなかった時代と一概に比較はできないが、競馬に対し興味や関心を持ってくれる人が非常に増えていることの表れなのではないだろうか。
現在は、インターネット投票を中心に競馬を楽しむ新規の競馬ファンも増えている。そのファンの方々にとって、WEBでの投票は、より身近なものとして受け入れられているはずであり、今年のファン投票上位馬の得票数も注目される。